意味がわからない本を読むことで本質がわかるようになる

思考と表現
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意味がわからない本を読むことで本質がわかるようになる

素読(すどく)

素読というものをご存知でしょうか。昔の教育映像などで、先生の後に続いて子供たちが小難しい書物を音読している様子を見たことがある方はいらっしゃると思いますが、あれが素読です。

学習の一方法。例えば漢文学習法には、文字の順序に従って音読みする直読と、日本語に読み下す訓読とがあり、素読はこの訓読の一法であるが、その意味や内容は二の次とし、訓読口調に熟達して、文章を暗唱するように読むものである。素読は中世以来盛んになった方法で、とくに江戸時代には漢文を学習する幼若の初学者の間で盛行した。寺子屋などで教材として多く用いられたのは、『論語』『孟子(もうし)』『大学』『中庸』のいわゆる四書で、これらの教材の意味、内容を深く考えることなく、ただ口調のおもしろさに応じて暗唱し、読了する。記憶力の旺盛(おうせい)な幼若初学者には、漢文口調のおもしろさは格別で、それにつられての熟達も速く、素読はそれなりの効果があったが、明治以後の漢文学習には、そののんびりとした性格から、すっかり廃れた。「読書百遍、意自(おのずか)ら通ず」というのはこの漢文素読法の賞揚に通じる。

この素読をするということは、現代の教育カリキュラムからはなくなりつつありますが、「わからないことを理解する」という訓練としては非常に有益だというころなのです。

ついつい我々はわかりやすい本ばかり手に取ってしまいますが、それでは読む力は鍛えられないということなのです。この「読む」というのは、

1.文字や文章を文字通り読む

2.文字や文章の意味を理解する

3.外面を見て、その隠された意味や将来などを推察する

4.先の手を考える

というようないくつかの意味がありますが、この2の深い部分と3,4が出来るようになる為に、この素読という訓練は役に立つと言われています。

韋編三絶(いへんさんぜつ)

中国には韋編三絶(いへんさんぜつ)という言葉があります。

繰り返し繰り返し読んで、読書に熱中することのたとえ。孔子(こうし)が、晩年、易書(えきしょ)を好んで熟読し、繰り返し繰り返しそれを読み返したので、その綴紐(とじひも)が三度も切れてしまったとある『史記』「孔子世家」の故事による。「韋」はなめし革のこと、「韋編」とはなめし革の紐で綴じた竹の札(竹簡(ちっかん)といい、古代中国の書物)をいうが、転じて、広く書物一般をいう。「韋編三度絶(みたびた)つ」とも読み下していう。

何度も何度も繰り返しじっくり読むことで、本質を理解することが出来るという内容です。骨太の名著は非常に読み辛いと感じることがありますが、それは読み手の読書レベルが低いということの裏返しとも言えるでしょう。

何度も読むうちにふと気が付くことがある

同じ本を何度も読むことに疑問を抱く方もいるとは思います。しかし、名著と呼ばれる書籍は、一度読んだだけでは理解しきれない内容が書かれていると共に、そもそも読み手の読む力、置かれている状況、周りの環境などが日々変わっている中で一種の鏡の役割を担うことがあります。意味を理解するだけでなく、自分自身を振り返る一助にもなります。

反復することで得られるものは本質的であることが多いので、ぜひ古典や名著を手に取ってみて下さい。

 

セロミ
セロミ

なんだか私も本を読みたくなったわ。

 

 

 

銀七先生
銀七先生

いいですねぇ、国語教師としては古典はオススメです。

 

 

 

セロミ
セロミ

素読もいいんだけど、ちょっといきなり古典は難しいから、今日はこっちにするわ。私にはほぼ意味がわからない本だし。

 

 

 

銀七先生
銀七先生

随分分厚くて読み応えがありそうですね。何て本なのですか?

 

 

セロミ
セロミ

コロコロコミックよ。私には何が面白いのかまったくわからないから何度も読み返してみるわ。

 

 

銀七先生
銀七先生

意味がわからないの意味が違いまーす!!

読むに値する本に出会うのは難しい

一般的に人生を変える5冊という表現をしたりしますが、何度も繰り返し読むに値する本に出会うのは相当に難しいと言われています。ハズレの少なさで言えば、やはり現代まで読み継がれてきた古典を選ぶのが無難だと思いますが、「本は鏡」と表現した通り、自分の考え方や軸に合う本は、ある種自分自信を探しているということでもあるので、色々な本に触れ、じっくりと出会いを楽しむのも良いかもしれません。

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